シーン17「リアの視点から。かの研究室で」

 駅から出るとセント=レーレニアの都会の街並みが広がっている。この街に来るのはもう二年ぶりだ。
 この街並みは殆ど変わっていない。格調高い金融街。緩やかな坂道を走る路面電車。どれもはっきりと覚えている。隣接するシルフィーの街とはまるで性質の違うその街並み。ここは格調高い街だった。

 ヴェンデマール国立大学。今、私はここに向かっている。
 この地方における最高の教育機関。私はかつてここに所属していた。二年前、逃げるように学問の世界から姿を消した私。再びあの研究室を訪れることになるとは。

 昨日見た、アイのパートナーのあの色違いのプラスルのクルル。
 あれは、間違いなくフィンだった。虚ろな目をし、エリオスとどことなく近い空気を持っていた。でもフィンは三年前に崖から落ちて死んだはず。だから確かめないといけない。科学的手法を用いて。

 しばらく歩くと、大学が見えてくる。
 正門前で、あいつがちょうど待っていた。かつての研究仲間、エネス。

「やあ、久しぶり」
「ええ、久しぶり。なんだかやつれたわね。ちゃんと食べてる?」
「ああ、最近大学にこもりっぱなしだったからなあ」
「相変わらずのんきね」
「はは」

 エネスは本当にやつれていた。だけど、その目は好奇心いっぱいの少年のままで何だかまぶしかった。

「まあ、とりあえず行こうか」
「ええ」

 あの頃は毎日のように歩いたイチョウの並木道。もうこの季節だと木々は枯れている。紅葉の時期だと絵を描いている老夫婦や銀杏を拾う人たちで賑わっているものだけどこの季節は少し寂れている。

「リアさんは元気にしてた?」
「ええ、そういうあんたはちょっとやばそうね」
「ああ、先生にも同じことをいわれてるよ」
「相変わらず研究に没頭してるんだね」
「これくらいしかとりえがないからね」

 そう、照れくさそうに答えるエネスはあの頃と変わっていなかった。

「そういえば、今日はどうしたんだい。昨日電話をもらったときは突然だったからびっくりしたよ」
「ええ。同定して欲しいサンプルがあるのよ」
「DNA鑑定かい?」
「ええ。あんた、CL14のことは覚えてる?」

 エネスの足が止まった。無理もない。

「まさか同定して欲しいサンプルって……」
「ええ、あんたの考えているとおりよ」

 私のポーチには二つのサンプルが入っている。一つはエリオスの口内粘膜細胞。もう一つはあの色違いのプラスル、クルルの血液をにじませたガーゼ。
 それにしても妙だった。昨日クルルを見つけたときに既についていたあの傷は、まるで切りつけられたかのような、そんな傷だった。ガーゼに血をにじませそのあと急いでハンカチですぐに手当てをしたのだけれど、あの傷がどうも気になった。

 CL14の名前を出してからは、お互い無言だった。
 やがて、理学部の由緒ある古い建物が見えてくる。レンガ造りの建物が懐かしかった。

 一度建物に入ると複雑に入り組んだ廊下が迷路のように張り巡らされているが、意外と覚えているもので難なく研究室までたどり着いた。ちなみにはじめてきた人はほぼ間違いなく迷子になるという。
 ヴァンデマール国立大学理学研究科生命理学専攻分子生命科学講座。かつて私が在籍していた研究室。
 扉をあけるとそこは実験室。遠心分離器、増幅装置などが所狭しと置かれ、棚には薬品の瓶や古びた書物がびっしりと並んでいる。世界最前線の遺伝子研究の場だった。
 そのとき、奥の部屋から一人の女性がやってきた。私の恩師。白衣がよく似合うその素敵な女性はいつもにこやかに対応してくれた。

「やあやあリア君。久しぶり」
「お久しぶりです。フラン先生」
「ん? どーした。いつもの君らしくないぞ」

 先生は相変わらずのようだった。

「お元気そうで何よりです」
「当たり前だ。そうでないと研究などやってられんよ」

 妙に古風な言い回しがこの人にはよく似合っている。

「それとこれ、先生に差し入れです」
「ん? 何だね、これは?」
「うちのマスター特製のチーズケーキです」
「おお、それは素晴らしい。バレン殿にもよろしく言っておいてくれ」
「はい」

 さて、そろそろ本題に入らないと。

「それで、エネスには昨日電話して話したのですが、DNA鑑定をエネスにしてもらいたいのですが構わないですか?」
「ああ、構わんよ。金のことも心配する必要はない。研究費から落としておくよ」
「はは……ありがとうございます」
「じゃあ、エネス君に試料を渡したら私と一緒に外に出ないか。君と話をしたいしな」
「はい」

 エネスに二つのサンプルを渡すとフラン先生と一緒に外に出た。

 木々の枯れた理学部のローンをフラン先生について歩く。

「この季節は味気ないな」
「ええ、そうですね」
「そしてリア君。今の君も味気ない」

 身をひるがえし、いきなり何を言うのかと思えばフラン節のようだった。研究時代は説教くさく色々と聞かされたものだった。

「どうだい。また学問の世界に返り咲く気はないかい?」
「いえ、もう学問の世界に戻る気はありません」

 もう、学問の世界に返り咲く気なんてさらさらない。誰がなんと言おうと。

「そうか。君は基礎研究、考察、プレゼンテーション能力全てにおいて優れた人物だったが……やはりあのことがまだ尾を引いているようだな」
「やっぱり、そう見えますか?」
「ああ。ただ、君が身を引いたのは正解だったのかもしれん。この分野を行う人間なら生命倫理は常に意識しておかねばならんしな」
「ええ」

 生命倫理。それ以前にあの頃の私には根本的なものが欠けていたと思う。だからあの悲劇は起こってしまった。あの時ほど自分を責めたことはなかった。

「おや? 暗いよ、リア君」
「ああ、すみません」
「それは、そうと……」

 先生はご機嫌そうに含みを持たせてこう切りだすのだった。

「そろそろ結婚する気はないかい?」
「いっ、いきなり何を言うんですか。先生」
「おやおや、照れちゃってかわいいねえ。君ももういい年だろう。いい人はいないのかね」
「いい人ですか。いませんねえ」
「うちのエネス君はどうだ?」

 エネス。確かにあいつは優しいけれど、引っ込み思案だし理系特有の空気が気になる。顔は可もなく不可もなくといったところか。なんだか微妙すぎる気がする。

「若いうちは熱い恋愛もいいが結婚してからはずっと一緒にいるんだ。だからああいう男のほうが人生を通じての伴侶としてはいいと思うのだよ」
「……ご自身の経験からですか?」
「それはご想像に任せるよ。さて、そろそろ戻るか」

 フラン先生は終始ご機嫌そうだった。

「ああ、部屋に戻ったらまた研究だ」
「何だか面倒くさそうですね」
「いや、最近なかなか成果が出なくてな。思えばルクレウス氏、ルドルフ氏がいた頃がうちの研究室の最盛期だったよ」
「あの両氏は偉大だったそうですね」
「ああ。恐らくルクレウス氏はこの分野では世界最高の科学者だっただろう。その弟子のルドルフ氏も然り。ルドルフ氏と同じ血を持つ君にはかなり期待したものだよ」

 この研究室のかつての教授であったルクレウス氏。その弟子で助教授のルドルフ氏。彼らは数々の業績を残した。しかし、ずっと昔に教授号をフラン先生に与え両氏は学問の世界から去ったという。
 また、ルドルフ氏は私の叔父でもあった。あのオヤジとはかなり仲が悪かったようだけど。叔父様は元気にしているだろうか。

 両氏の話に花を咲かせ部屋に戻ると、エネスが待ってましたという表情で迎えてくれた。さっきのフラン先生の結婚の振りがあったせいか不覚にも少し意識してしまった。

「先生、リアさん。アップルパイ、ご一緒しませんか?」
「お、いいねえ。紅茶も淹れてくれるとありがたいよ」
「ええ、今すぐ」

 私の大好きなアップルパイ。しかも、これは私のお気に入りの店『フォンティーユ』のアップルパイだ。

「リアさん『フォンティーユ』のアップルパイ好きだったでしょ」

 お茶を淹れながら振り向いて話すあいつが私の研究時代の頃と重なって見えた。そういえば何年か前、一緒にここでアップルパイを食べたっけ。その時食べた『フォンティーユ』のアップルパイが本当においしくて、それをあいつに言うと時々買ってきてくれるようになって、一週間に一度はおやつにアップルパイをお茶と一緒に楽しんだものだった。
 あの頃と同じようにティーカップが差し出され、気ままなティータイム。

「そうそう、サンプルは明日以降分析して結果はそのあと郵送するから」
「ええ、ありがとう」

 エネスに任せておけば大丈夫だろう。鑑定結果でエリオスのサンプルとクルルのサンプルが一致すればクルルはフィンだということになる。でも、それを姉さんに言ったとしてどうなるのか。それにアイにも言わないといけない。

「リア君。考え事かい?」
「ええ」
「まあ、お茶時くらいは気を楽にしたまえ。でないと身が持たんぞ。エネス君と話したらどうだ」

 そうそう。とりあえず、あのことを言っておかないと。

「そういえば、前にくれたハネッコのハンカチなんだけど、あれ大切な人にあげちゃったのよ」
「そうかそうか。エネス君もかわいそうに」
「いえ、いいんです」

 といっても一瞬顔が曇ったのを見逃さなかった。エネスはすぐに顔に出るからすぐに分かる。私も人のことは言えないのだけれど。そして、それを計算して話を進める先生は少し意地悪だった。

「大切な人といっても女の子だから」
「うむ、ライバル出現かと思ったが女の子だったか。しかし、ハネッコ仕様のハンカチとは」
「ハネッコは、かわいらしくないですか?」
「いや、なかなかかわいくていいポケモンだとは思うよ。リア君はどう思う?」
「ええ、外見もそうですし飛ばされないように寄り添っている姿はかわいらしいと思います。それに……」
「それに?」
「先生には内緒です」
「うーん、残念」

 今思い出した。あのハネッコとの想い出。そして、それをずっと前のティータイムにエネスに話したっけ。
 もしかしたらあの話を聞いたからエネスはあのハンカチをくれたのかもしれない。実際の所どうなのだろうな。あのハンカチはやっぱり手元においておいたほうがよかったのかしれない。少し、後悔してしまった。

 さて、そろそろ店に帰る時間だ。今日はエネス、先生に会えてよかった。と同時に研究時代がいとおしくもなった。でも今私がいるべきなのはここではない。
 後悔なんてしたくない。少しでも姉さんに罪滅ぼしをしなければ。

 二人に再開の約束をして、かの研究室をあとにした。